一番の親孝行

今日も絶好調!!絶好調!!

今朝も最高に幸せな朝を迎えました。

朝、目覚めの第一声は、いつも「神様!感謝します」

「今日も素晴らしい一日を用意してくださり、

ありがとうございます」

そして、親愛なる皆様へ心から感謝しています。

私は私ぐらい『幸せな人』はいないと思っています。

「私は世界一の幸せ者です」

そして『言葉は力です』

言葉遣いは「明日の自分」を作ります。

今日も元気になる言葉を発して、

明るく楽しく過ごしましょう。


今日は『母の日』ですね。

お母さんへプレゼントは何か用意されましたか?

未だと言う方は「声のプレゼント」とか

「手紙のプレゼント」などは、いかがでしょうか。

日頃、照れくさくて言葉に出来ない「ありがとう」の言葉が

母にとっては一番嬉しいプレゼントかも知れませんよ。


『母の日』の由来は、ウエストバージニア州に住む

アンナ・ジャービスが1905年5月9日に亡くなった

母・ミセス・ジャービスを追悼するために1908年5月10日

白いカーネーションをフィラデルフィアの教会で配ったのが始まりです。

そして、その日が第2日曜日だったことから1914年に

5月第2日曜日を『母の日』としてアメリカ国民の祝日に制定しました。

母を想い、母に感謝するアンナの母への愛が

人々の心を動かし文化となって世界に広がっていったのです。



『親から頂いた能力を少しでも多く使って死ぬ』



今日は「ある偉人と母の愛」についてご紹介しましょう。

一般財団法人・地域活性化センターの

『伝えたいふるさと100話』という本の中に

私の故郷の偉人、野口英世とその母、シカの話が載っていました。


野口シカは、自分のせいでわが子、清作(後の野口英世)に

大火傷させて不自由な体にしたことを悔やみ、

農業以外の仕事もできるよう清作を学校に出すために

学費を稼いでいたのでした。

大きな荷物を背負い猪苗代と若松の間の五里(約20km)の坂道を

往復して生活費と清作の学費を稼ぎました。

清作は、母のその姿を見て、一生懸命勉強しました。


シカが清作の猛勉強ぶりを見て心配すると、

「おっかさんは男勝りの仕事をしているのに、

おれがこのくらいのことすんのは当たり前だべ」

と母をねぎらうのでした。


清作が三ツ和小学校に通っていた十一歳のとき、

校長先生から先生の代わりに教壇に立って教えてみないか

といわれたことを聞いたシカは

清作に新しい洋服を買い与えました。

洋服など村の誰も着ていない時代に

シカは頑張った清作に精いっぱいのことをしてやったのです。


明治二十九年、清作が上京して医師資格の受験勉強をしていた時も

シカは、清作が頑張っているから自分も負けられないと

近くの助産婦さんを手伝って助産婦の資格を取ったのでした。

やがて清作は、医師の試験に合格すると英世と名前を変えて

前にも増して勉強に励みました。

その後、渡米し、医学の研究成果を上げて

ノーベル賞の候補になりました。


明治四十五年二月、忙しい日々を送る英世のもとに

シカから手紙が届きました。

文面にはなつかしい字で、

「早く帰ってきてくだされ。一生の頼みでありまする」

と書かれていました。

英世は、母に会いたくて手紙を読んで涙を流しましたが

研究が忙しくて帰国をすることができませんでした。


三年後の大正四年、五月、友人から英世のもとに

一通の手紙が届きました。

それは、シカの体が弱っていることや

今、会わないと二度と会えないことなど

万難を排して帰国をすすめる手紙でした。

同封してあったシカの年老いた写真を見て、

今、母に会わなければ一生の悔いを残すと思った英世は

一五年ぶりの帰国を決意しました。


郷里に戻った英世は、せめてもの親孝行のつもりで

東京や伊勢、関西を一緒に旅行したのでした。

立派になった英世を見てシカは、

「立派なお前の姿を見れたし、龍宮城に行った浦島太郎のようで

大変幸せだよ。心残すことはねえー」と、感謝したのでした。


それから三年六ヵ月後の大正七年、英世が黄熱病の研究で

大きな成果を上げて、南米のエクアドルから

アメリカのニューヨークにあるペンシルベニア駅に到着したとき

英世はシカの死を知らされました。

シカは当時流行したスペイン風邪に倒れたのです。

自分が病気だと知りつつ助産婦の仕事を続けたシカは、

無理がたたって急に亡くなったのでした。


悲しみのあまりホームにひざまづいた英世は

シカから、「世のため、人のためにつくしなさい」

といわれた言葉をじっとかみしめていました。

その後、人の命を守るために一生懸命に働くことを

心に誓った英世は、周囲の反対にもかかわらず

黄熱病の研究でアフリカに渡って研究に没頭します。

しかし、研究中に黄熱病に感染して、世界の人々に惜しまれながら

昭和三年、五十一歳でこの世を去ったのでした。


ニューヨークにある英世の墓石には、

「日本の猪苗代に生まれ、

アフリカのゴールドコーストで死亡。

科学に献身して、

人類のために生き、

人類のために死す」

と刻まれています。


(『伝えたいふるさと100話』より)


いかがでしょうか。

母・シカの愛とその愛に応えようとしたした野口英世。

「世のため、人のためにつくしなさい」という

母の言葉を守るために危険と判りつつアフリカへと渡ったのです。

その野口英世は、次のような言葉を遺しています。


「私は少しも恐れるところがない。

私はこの世界に、何事かをなさんがために

生まれてきたのだ」


英世のこの言葉は、私たちに

「何を成すために生まれて来たのだろうか」

そして「今、何を残すために行動しているのだろうか」

また、それを見つけて「今を全力で生きているだろうか」と

考えさせる言葉ではないでしょうか。


私は、母への最大の親孝行は「親から与えて頂いた能力を

少しでも多く使って死ぬこと」だと思っています。

そして、その能力を「誰かのために・・」

「何か人のお役に立つために・・」使うことだと思います。

ですから私は「この親から頂いた能力を誰のために、

何のために活かすことが出来るのだろう」と自問自答するのです。


「言葉はちから」です。

その自問自答が「親から頂いた能力を開発する」ために

そして「何かをこの世に残す」ために

「新しいこと」「出来ないと思われること」に挑戦させるのです。

「今日という日を全力で生きる行動」へと導くのです。

すると、充実の日々となり幸せな人生となるのです。

それが、一番の親孝行となるのです。

大切なのは「何かが達成出来ること」ではなく

そのことで「能力が少しでも開発される」ことなのです。


だから、今日も、

「言葉のちから」を信じて

明るく、元気に、

「親から与えて頂いた能力を、少しでも多く・・」の言葉と

「この親から頂いた能力を誰かのために・・」の言葉を口に

ウキウキ、ワクワク、人のお役に立つ行動を通じて

少しでも多く開発しましょう。

その姿勢が充実の日々と幸せな人生を

歩ませて頂くことになるでしょう。

それが一番の親孝行をさせて頂く行為となるでしょう。


大丈夫!大丈夫!

あらゆる点で一層良くなる!

必ず良くなる!

良かった!良かった!

ツイてる!ツイてる!

ありがとう!

今日も、素晴らしい仲間たちと

共に生き!!

共に歩み!!

共に成長しましょう!!


今日も最後までお付合いを頂き、ありがとうございました。


感謝 合掌


※こちらのブログは、毎朝、メルマガ読者にお送りしているものをブログにしています。
日々、リアルタイムに読んでみたい!という方は、
メルマガ希望欄よりお申し込み頂ければ、メルマガ読者として登録させて頂きます。
http://www.kotobawachikara. com/register.php