今日も絶好調!!絶好調!!
今朝も最高に幸せな朝を迎えました。
朝、目覚めの第一声は、いつも「神様!感謝します」
「今日も素晴らしい一日を用意してくださり、
ありがとうございます」
そして、親愛なる皆様へ心から感謝しています。
私は私ぐらい『幸せな人』はいないと思っています。
「私は世界一の幸せ者です」
そして『言葉は力です』
言葉遣いは「明日の自分」を作ります。
今日も元気になる言葉を発して、
明るく楽しく過ごしましょう。
甚大な被害を出した台風19号のあとの最初の土曜ですが
前線の影響で雨模様のところも多く、被災地にも局所的に
激しい雨が降る恐れがあります。
後片付けの作業に追われているかと思いますが、僅かな雨でも
洪水や土砂災害になる危険性がありますので注意して頂きたいです。
マラソン会場が札幌へ変更のニュースで「北方領土」が
話題になっていますが、今日は『日ソ国交回復の日』です。
1956年の今日、モスクワのクレムリンで、日本とソビエト連邦
(現ロシア)が『日ソ共同宣言』に調印し国交が回復しました。
ソ連は、サンフランシスコ平和条約に調印していなかったので
日本とソ連は戦争状態が続いたままでしたので、北方領土問題は
棚上げにされて今に至っています。
この時に領土問題が解決していれば、現在のように揉めることなく
豊かな自然をともに共有できたのではないかと思います。
ですから、問題が起きたら先延ばしせず早めに解決することです。
今は、北方領土が一日も早く戻ってくることを願っています。
『二つの国、二つの愛に生きた人生から学ぶ』
今日は、戦後の混乱が続く平壌で身に覚えのないスパイ容疑で
ソ連の将兵に連行された蜂谷彌三郎(はちや やさぶろう)さんの
「二つの国、二つの愛に生きた人生」をご紹介します。
長いですので、覚悟してお読みください。
蜂谷彌三郎さんは、スパイ容疑でソ連の将兵に連行され
厳しい取り調べの末に7年間の強制労働を課せられます。
蜂谷さんは、極寒のシベリアで幾度となく死を覚悟し、
絶望感、孤独感にさいなまれ続けます。
しかし、やがて一人のロシア人女性と出会います。
彼女の名は、クラウディア。
蜂谷さんの運命は、クラウディアさんとの出会いで
大きく好転していきます。
出会いから、30年以上の時を経て、蜂谷さんが無事
帰国を果たせることになった時、クラウディアさんは
蜂谷さんに一通の手紙を贈ります。
その「クラウディアさんの手紙」には・・
時々、思い出してください。ロシアを、プログレス村を・・
私たちは、思いもよらない人生での出会いをしました。
似かよった運命が私たちを引き寄せたのでした。
教会で結婚式を挙げずとも、
誠実の誓いを行わずとも、
私たちの人生は誠実で、そして神聖でした。
私たちの暮らしは、決して裕福でも贅沢でもありませんでした。
私たちの人生は、常に恐怖のもとで過ぎていったのでした。
どうか、あんな疑いが二度と繰り返されないように。
どうか年老うるまで安らかに生き永らえますようにと、
長い年月、朝夕、祈っていたのでした。
一切の責任は戦争にあるのです。
私は、心からあなたを理解しておりました。
ご両親や弟妹、たった生後一年余りで別れた娘さんや
奥さんがいる祖国を恋しく思うあなたの心のうちを・・。
私たちは、こまごまとそのすべてを思い浮かべて、
涙と共に、いつも思い出話は尽きませんでした。
食事の時間も忘れて身を砕くようにして、
ただ一心不乱に働きましたね。
そして、長い年月が流れました。
私たちはようやく、その人たちが
健在であることを知ったのでした。
娘さんやお孫さんたち、それに年老いた奥さんが
一途にあなたの帰りを待ち焦がれておられることを・・。
いま、年老いたあなたが多くの病を抱えて、
一切が失われたようだった祖国へやっと帰っていくのです。
奥さんや娘さん、お孫さんたち、
弟妹、友人たちが待っている祖国へと・・。
もはや、私たちは再び会うことはないでしょう。
これも私たちの運命なのです。
他人の不幸の上に私だけの幸福を築き上げることは、
私にはどうしてもできません。
あなたが再び肉親の愛情に包まれて、
祖国にいるという嬉しい思いで、私は生きていきます。
私のことは心配しないでください。
私は自分の祖国に残って生きていきます。
私は孤児です。
ですから、私は忍耐強く、勇敢に生きていきます。
私たちは、このように運命づけられていたのでした。
37年余りの年月をあなたと共に暮らせたこと、
捧げた愛が無駄ではなかったこと、
私は、この喜びで生きていきます。
涙を見せずに、お別れしましょう。
過去において、もし私が何か不十分なことがあったとしても、
あなたは一切を許してくださると思います。
あなただけは、この私を理解してくださると信じています。
私が誠実な妻であり、心からの友であったことを・・。
あなたたちの限りない幸せと長寿を、
心から祈り続けることをお許しください。
(『クラウディアの手紙』より)
蜂谷さんは、日本に帰国を果たす1年前の1996年8月に
娘さん夫婦がロシアに来て父子が再会を果たします。
その時の蜂谷さんの言葉が・・
私が家族と再会したのは1996年8月でした。
駆け寄ってきた娘を抱くと、51年前に乳飲み子だった
娘の頭に白髪があるんです。
時の流れを感じました。
クラウディアと友人たちが温かく歓迎してくれ、
その時に家内が50年間、再婚もせずに
私を、ただ一途に待ち続けてくれていたことを知りました。
クラウディアは、私を帰国させるために内緒で帰国同意書を作り
シベリア鉄道で片道11時間かかるハバロフスクの
日本総領事館に提出していました。
私が元気なうちに、一日も早く帰国させねばと必死だったのでしょう。
そして、あの日から翌年3月の別れの日まで、
私たちが飼っていた綿羊の羊毛を紡ぎ始め、徹夜で温かい
セーターやソックスなどいろいろと編み始めました。
私に持たせ、贈りたかったのでしょう、
一所懸命でした。
今年の冬もそれを着る心積もりです。
苛酷な運命に翻弄(ほんろう)されながらも、激動の人生を
生き抜かれた蜂谷さんの人生を支えたのは
クラウディアさんの無私の愛と、日本に対する望郷の念でした。
そして、もう一人、蜂谷さんを思い続けていたのが
娘とともに長年にわたって帰国を待ち続けた妻・久子さん。
いかがでしょうか。
蜂谷さんの人生をみると「祖国とは何か?」「愛とは何か?」
「人間とは何か?」教えられた気がします。
また「二つの祖国」「二つの愛」は、美しいくもありますが
苦悶の人生でもあり、二つの苦労を背負う
つらい人生でもあったと思います。
しかし、この戦争の悲劇から救ったものは「人を思う優しさ」であり
「思いを叶えてあげたい」と言う「人を想う愛」だったのです。
ですから、私たちも「何があっても戦争は絶対に起こさない」と
強く決意することと、大切な目の前に人に
「この人の想いを叶えてあげよう」と心の中で叫びましょう。
「言葉はちから」です。
その口にした決意と心の叫びが「人を想う愛」となり
「平和な世界」を築くのです。
また「人を想う愛」が人の心と心をつなぎ
幸せな人生を歩むことが出来るのです。
世界が今「自国主義」へと進んでいる時だからこそ
人の心と人の心をつないで「国境や人種差別のない」
「愛で築く平和な世界」をつくる責務が私たちにはあるのです。
だから、今日も
「言葉のちから」を信じて
明るく、元気に
「何があっても戦争は起こさない」の言葉と
「この人の想いを叶えてあげる」の言葉を口に
ウキウキ、ワクワク、人を想う愛(心)を育みましょう。
人を想う愛(心)で平和な社会を築いていきましょう。
また、人を想う愛(心)で幸せな人生を歩ませて頂きましょう。
すると、いつの日か、人と人との心がつながり
愛に満ちた、心に国境のない『宇宙船地球号』となるでしょう。
大丈夫!大丈夫!
あらゆる点で一層良くなる!
必ず良くなる!
良かった!良かった!
ツイてる!ツイてる!
ありがとう!
今日も、素晴らしい仲間たちと
共に生き!!
共に歩み!!
共に成長しましょう!!
今日も最後までお付合いを頂き、ありがとうございました。
感謝 合掌
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