8月16日『言葉を科学する【胸の張れる人生を送る】』

今日も絶好調!!絶好調!!

今朝も最高に幸せな朝を迎えました。
朝、目覚めの第一声は、いつも「神様!感謝します」

「今日も素晴らしい一日を用意してくださり、
ありがとうございます」

そして、親愛なる皆様へ心から感謝しています。


私は私ぐらい『幸せな人』はいないと思っています。
「私は世界一の幸せ者です」

そして『言葉は力です』
言葉遣いは「明日の自分」を作ります。

今日も元気になる言葉を発して、明るく楽しく過ごしましょう。


今夜は、京都の夏の風物詩『京都五山の送り火』です。

『五山送り火』は京の夏の終焉を飾る行事ですが、この便りを聞くと
今年も終盤戦に入った想いで、全力で過ごそうと思います。

夏の終わりは近づいていますが未だ未だ残暑が厳しいですので
体調管理には気を付けてお過ごしください。


毎日、甲子園で熱戦が繰り広げられていますが『バットを銃に変え、
戦場で散った球児たち』という記事がありました。

多くの球児が先の大戦では亡くなったのです。

今の私たちの平和と繁栄があるのは、この様な若者の尊い犠牲の上に
あることを私たちは決して忘れてはなりません。



『私たちが生きる今日は、戦友たちが生きたかった未来』



「若者よ、君たちが生きる今日という日は

死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」


これは「不沈戦艦」と言われていた『大和』の沈没から生還した
八杉康夫さんの言葉です。

今日は、その八杉さんが生き地獄から生還した話をご紹介します。


昭和16年当時、最先端技術を結集した世界最大の戦艦「大和」

17歳で乗艦した『大和』の乗組員3千余名のうち、
生き残ったのはわずか276名。

第一波、第二波と攻撃を受けるうち、大和の後部が白煙を
上げているのが私にも分かりました。

なおも攻撃が続けられ、魚雷が的中した時は
震度5にも感じられるほど激しく揺れました。

次第に船は傾いていきます。


砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
25度、30度とどんどん傾いていきます。

それでも、戦闘中は命令がない限り持ち場を離れることはできません。

その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。

軍には「逃げる」という言葉はありませんが
これが事実上「逃げろ」という意味です。


すでに大和は50度ほど傾いていましたが、この時初めて、
「大和は沈没するのか」と思いました。

それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。

もう海に飛び込むしかない。
そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。


私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、
自分の腹を切ったのです。

噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。

船は、ますます傾斜がきつくなっていきました。
90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。

飛び込んだのも束の間、沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれました。


その時、私の頭によぎったのは海軍で教わった
「生きるための数々の方策」です。

海軍に入ってからというもの、私たちが教わったのは、
ひたすら「生きる」ことでした。

(中略)

海軍では「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」などと
言われたことは一度もありません。

ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。

ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走り、
戦艦大和が大爆破したのです。

そこで私の記憶はなくなりました。


気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。

しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。

「助けてくれ!」と叫んだと同時に、何とも言えない恥ずかしさが
込み上げてきました。

この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが・・・

すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。


「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。

そう思って身構える私に、彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、

自分がつかまっていた丸太を押し出しました。

そして「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、
頑張って生きろ」と言ったのです。


4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、川崎高射長は
それに背を向けて大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。

高射長は大和を空から守る最高責任者でした。

大和を守れなかったという思いから、死を以て責任を取られたのです。

高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく
「彼の命」そのものだったのです。


最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、現在の学生の姿を見ると
戦後の教育が間違ったと思わざるを得ません。

(中略)

よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、毎日のように
親と子が殺し合うこの日本のどこが平和なのですか?

確かに昔も殺しはありました。

しかし、「殺してみたかった」などと、意味もなく殺すことは
考えられませんでした。

真の平和とは、歴史から学び、つくり上げていくほかありません。


(中略)

人として生きたなら、その証を残さなければなりません。

大きくなくてもいいのです。
小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。

戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
今なお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。


私の一生は私だけの人生ではなく、生きたくても生きられなかった
戦友たちの人生でもあるのです。

うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。

いつか再び戦友たちに会った時に「俺も生かされた人生で
これだけ頑張った」と胸を張りたいと思います。


(八杉康夫さんの言葉より)


生き地獄から生還した八杉さんの話、いかがだったでしょうか。

私たちも「これだけ頑張った」と胸の張れる人生を送りたいものです。

ですから、私も「何のために・・」、「誰のために ・・」と
自分に与えられた人生の意義を問い続けます。


「言葉はちから」なのです。

その自分に問い掛ける言葉で自分の人生の意義が見つけるのです。

そして、いつの日か「この国のために命を捧げた人たち」に

「ありがとうございました。私もお陰様で充実の納得のいく
人生を謳歌させて頂きました」と報告します。

それが、胸を張って生きる充実の人生となるです。


私たちは「死」を意識することで「今」を輝かせることが出来ることを
先の大戦で多くの若者が生命を賭して教えてくれたのです。

心から感謝をすると共に冥福を祈ります。


大丈夫!大丈夫!

あらゆる点で一層良くなる!

必ず良くなる!

良かった!良かった!

ツイてる!ツイてる!

ありがとう!


今日も、素晴らしい仲間たちと

共に生き!!

共に歩み!!

共に成長しましょう!!


今日も最後までお付合いを頂き、ありがとうございました。


感謝 合掌


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