親の愛

今日も絶好調!!絶好調!!

今朝も最高に幸せな朝を迎えました。

朝、目覚めの第一声は、いつも「神様!感謝します」

「今日も素晴らしい一日を用意してくださり
ありがとうございます」

そして、親愛なる皆様へ心から感謝しています。


私は私ぐらい『幸せな人』はいないと思っています。
「私は世界一の幸せ者です」

そして『言葉は力です』

言葉遣いは「明日の自分」を作ります。

今日も元気になる言葉を発して、
明るく楽しく過ごしましょう。


今日は、私たちが忘れてはいけない『東京大空襲の日』であり
『東京都平和の日』です。

終戦が近づいた1945年3月10日の深夜0時8分

アメリカ軍B29爆撃機344機による焼夷弾を用いた大空襲が
住宅が密集し人口密度が高い下町を中心に行いました。

この爆撃で東京は一夜にして、約27万戸の焼失家屋と
死者10万5千人以上を出し焼け野原と化しました。

2時間の空襲で死者数10万5千人は、広島原爆に超える惨事です。


アメリカ軍は、住宅が密集し人口密度が高い市街地を

焼夷地区1号に指定し、焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃で
住民を殺戮して戦争継続の意思をそぐことが目的でした。

また、春一番の吹く3月に焼き払い空襲を開始することを目指し
油脂焼夷弾を開発し、B29と共に大量生産をしていました。

要は、民間人殺りくが目的だったのです。

この様に、戦争は人間としての善悪の判断を失うのです。
ですから、何があっても戦争を起こしてはいけないのです。

東京都は、この様な惨事を二度と繰り返さない様にと
1990年(平成2年)に記念日として制定しました。



『大丈夫の励ましと、ありがとうの感謝で・・』



WHO(世界保健機関)のテドロス事務局長は昨日、

新型コロナウイルスが『パンデミック(世界的大流行)』となる
脅威が「現実味を帯びてきた」と表明しました。

長期化の様相を呈してきたように思います。

これにより、週明けのニューヨーク株式市場は、過去最大の下げ幅
2013$安となり、日経平均も2万円を大きく割り込みました。

もし、終息が長期化すれば、東京五輪開催の中止が現実味を帯び
日本経済は大打撃を受けるでしょう。


今、私たちが心掛けなければならないのはコロナ対策は勿論ですが
それと共にパニックを起こさないことだと思います。

パニックがパニックを呼び、経済パニックに陥ると
日本経済が浮上するのに長い時間が掛かると思います。

私たちが恐れなければならないのは、コロナウイルスの蔓延は
勿論ですが、パニックによる経済パニックだと思います。


【新型コロナウイルス感染よりも怖いのは・・?】という
メッセージを『たすけ愛』のHPに掲載しました。

http://tasuke-ai.com/archives/message/1384/ よりご覧下さい。


今日は「一夜にして戦災孤児になり、この胸の苦しみを
次世代に伝えていかなければならない。

命ある限り、供養を続けたい」と活動を続ける

落語家・林一門のおかみさん、海老名香葉子さんが
2015年にある雑誌で語った言葉から学びたいと思います。


私は戦火を逃れるため、昭和19年に静岡県沼津市の
おばの家に一人で縁故疎開しました。

出発当日、私は大好きなおばさんの家に行けると
わくわくしていましたが、母は涙をぼろぼろこぼしながら

お守りを首からかけてくれると「かよちゃんは明るくて元気で
強い子だから大丈夫よ」と何度も、何度も言うのです。


母があまりにも悲しい顔をしているので、だんだんと心細くなり

「母ちゃん、友達ができなかったらどうしよう」と呟くと
母は私の心細さを取り払ってくれるかのように

「大丈夫よ。あなたは人に好かれるから大丈夫よ。
明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」と何度も何度も繰り返しました。

それが最後の言葉となりました。


空襲後、生き残ったのは疎開していた私と
すぐ上の兄、喜三郎だけでした。

兄は家族5人が亡くなったことを伝える為に沼津まできましたが
きっと焼けただれた死体の山をまたいで

汽車にぶら下がるようにして東京からきてくれたのでしょう。

その夜、私は兄にしがみ付きながら、いつまでも泣いていました。

(中略)

そのあとは東京・中野のおばのもとへ身を寄せました。

どうにか置いてもらおうと一所懸命お手伝いをしましたが、
ある冬の日、瓶に水を張ってなかったと言う理由で凄く叱られました。

それまでは「いい子でいなくちゃ、好かれる子でいなくちゃ」と
思っていましたが、その日はひどく悲しくなって家を飛び出しました。

向かったのは、昔、家族で住んでいた本所の家の焼け跡でした。

焼け残った石段に腰を下ろし、ヒラヒラと雪が舞い散る中、
目を閉じると家族の皆と過ごした平和な日々が蘇ってきました。


「どうしてみんな私を一人にしたの?」
「もうこのままでいいや・・・」と思った、

その時、一人の復員兵が通りかかりました。

私の前で立ち止まり、鞄の中から一本のさつま芋を取り出し
半分に割って差し出しました。

「姉ちゃん、これ食べな。頑張らなくちゃダメだよ!」

物が食べられない時代、見ず知らずの人が食糧を分けてくれるなど
考えられないことです。

私は夢中になって頬張りましたが、お礼を言うのを忘れたと気づき
振り返りましたが、そこには誰もいませんでした。


いまにして思うと、あれは神様だったのかもしれません。
神は私に「生きよ」と告げたのだと思っています。

さつま芋を食べて元気になった私は、走っておばの家に戻りましたが
しばらくすると、その家にもいられなくなりました。

伝手(つて)で転々とする中で、辛いことは沢山ありましたが
拗ねたり、挫けたり、横道に逸れるようなことはしませんでした。


それは両親に愛された記憶があるからです。

悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、こんなことで泣いたら、別れ際に
「かよちゃんは強い子よ」と言ってくれた母ちゃんが悲しむ。

それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。


平和な時代に生きるいまの人たちには、子どもたちを
いっぱいいっぱい愛してやって欲しいと思います。

親に心底愛された子どもは、苦境に遭っても
絶対に乗り越えていけます。

そして、もう二度と戦争によって私のような悲しい思いを
地球上のすべての子どもたちにさせられません。

それが戦後60年の節目に願うことであり
私のすべての活動の原動力になっています。


(海老名香葉子さん言葉より)


海老名さんの言葉、いかがだったでしょうか。

私たちの親たちは、生死を彷徨うような厳しい逆境を生き抜いて
私たちを育ててくれました。

そのことを想うと「心から感謝」です。


私は、身体が弱い子供で、よく肺炎を起こしていたようです。

田舎でしたので、真っ暗な夜中に6kmの砂利道を村の診療所まで
背負って歩き、玄関の戸を叩いて医師に診てもらったようです。

そんな母の背中の温もりは、65年経った今でも忘れません。

そのお陰で、どんな逆境にあっても「生かされた命」を大切に
「母の喜ぶ顔が見たい」と思って頑張ることが出来ました。

ですから、お子さんをお持ちの方は、何かあったら
「大丈夫、大丈夫」と言って子供を励ましてあげましょう。

また、両親に対しては「産んでくれて、ありがとうございます」
「育ててくれて、ありがとう」と感謝の言葉を発しましょう。


「言葉はちから」です。

その、子供へ掛けた言葉が、子供に生きる勇気を与えると同時に
それが自分の生き甲斐にもなるのです。

また、親への感謝の言葉は、自分に勇気を与えてくれるのです。

子供の存在は、自分に生き甲斐を・・
親の存在は、自分に生きる勇気を・・与えてくれるです。


だから、今日も、

「言葉のちから」を信じて

明るく、元気に、

子供への「大丈夫、大丈夫」の言葉と
親への「ありがとう」の感謝の言葉を口に

ウキウキ、ワクワク、子供からは、生き甲斐を・・
親からは、勇気を頂きましょう。

そして、人生を謳歌させて頂きましょう。


私たち人類は、どんな逆境も親からの勇気と
親への感謝で克服して今を生きているのです。

ですから、これから起こるであろう逆境も
すべて乗り越えていきましょう。


大丈夫!大丈夫!

あらゆる点で一層良くなる!

必ず良くなる!

良かった!良かった!

ツイてる!ツイてる!

ありがとう!


今日も、素晴らしい仲間たちと

共に生き!!

共に歩み!!

共に成長しましょう!!


今日も最後までお付合いを頂き、ありがとうございました。


感謝 合掌



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